わたしのおじいちゃん

今日は、私のおじいちゃんの命日にあたる日だ。

亡くなったのは、今から18年くらい前になる。

 

84才で亡くなった父方のおじいちゃん。

晩年は脳梗塞で倒れ、身体の片側の麻痺、言語障害、足腰も弱り、その後は痴呆症になって、6年間くらい寝たきりだった。その介護は、母がした。

 

まだ「ホームヘルパー」という言い方を 一般にはしていなかった時代で、

母は、「はじめは大変不安に駆られた」と言うが、大変ということには気づかないくらい一生懸命、食事から、おしもの世話まで尽くしたと思う。

実際には、私はその頃大阪にいて、普段の様子を見ていないけれども、葬式のあと、

「まだまだ 生きてくれると思っていた」と

言った母をみて私が感じたことだ。

 

おじいちゃんとは元気なうちは、別々に住んでいて、時々私たち孫を見に私たちの家までカブでやってきた。

おじいちゃんは、話好きだった。戦争の話を、私たち兄弟3人が小さな頃から、何回も話してくれた。
「朝鮮戦争でなー、鉄砲の弾が当たったけれど、"鉄かぶ"とをかぶっちょったけん、助かっただがー、」と額のぷくっとした傷跡を私に触らせたりした。今でもその感触を覚えているから、子どもの私には衝撃だったに違いない。

 

私たち兄弟は、少し大きくなると、(また、戦争の話かぁー)と思い、それとなーくトイレへ行くふりして子ども部屋に入り、おじいちゃんの話を聞かないようになった。残った母が、何十回と聞いている戦争の話を1人、「あげいったねー、おじいちゃん」と言って聞いていた。そんな母だった。(現在も元気 笑)

 

なんとなく孫とおじいちゃん、おばあちゃんがふれあえる環境にいいイメージをもっていたこともあり、現在同居をしています(*^^*)

 

おじいさんが亡くなって、3年後、私はUターンし職に就いた。

そのとき、おじいちゃんの偉大さを身をもって体験。ありがたい体験を何回もした。
名札の名字を見て、おじいちゃんの孫と知った人から「あんたのおじいさんには、お世話になっただけん」とたびたび言われ、いつも笑顔をくださる方が多かった。お世話になったって言っても、何十年も前のことだったりするのに、今でも、そういってくださる人が多いことに、驚きつつ本当に助けられた。この小さな地域で過ごしていると皆そうだと思うけれど、「そっちのお父さん、お母さんには、お世話になっちょるけん」と、言われることがよくある。

 

私も家族をいづれ持つときに、子ども達がそう言われないとしても、少しでも、可愛がってもらえるといいなぁ、と思うようになった。

20代後半に、

「人にいかに助けられて、生きているか 日々、感じさせてもらえた 身をもって感じた」
一番は家族おかげだと、今でも思う。

 

 

話は、変わるが、、今日、午前中に、気づくと「なっこが家に居ない 家から出た!」と我が家で騒ぎ出したとき

 

「なっこちゃんが1人、海に入ろうとしていたので・・・・・わたしも必死になって・・・」

 

といつも犬の散歩をされている 少し年配の近所の奥さんが、なっこを連れてきて下さったところだった。

なっこの背中をそっと支え、家まで300メートルはあろうかという距離を、もう片方の手にワンちゃん、散歩紐を持った状態で・・・・よくなっこが素直に従って、無事に帰ってきたものだ・・・と不思議な感覚になった。とにかく、無事で良かった。ビックリされただろうと思う。うちの義母とお父さんと、丁寧に、感謝の気持ちを伝えた。

 

こんなことも、きっと、亡くなったおじいちゃん達が、人のために尽くしてきたことが、今なっこを助け、私たちを助けてくれているような気持ちになる。

そうやって、人と人は、支え合って、生きていくんもんなんだろうなぁ 

そう思う。