2014年

5月

28日

なっこが生まれた意味・・

なっこに「障がい」があると分かったとき・・・の私の気持ち・・

どう考え、どう受け入れることができたか?

何度か、書いたけれど、

正確に表現するのはなかなかうまく出来ていない。

 

実を言うと

ずっと、知的にも遅れがあると、薄々わかっていたけれど、

「自閉症」ということは、受け入れられても、

「知的障がい」ということは、受け入れられなかった。

 

 【知的障害】とは・・・? (ネットから引用)   
《「知的発達障害」の略》

知能を中心とする精神の発達が幼少期から遅れていて、

社会生活への適応が困難な状態。

 

ふつう知能指数(IQ)を基準に使い、軽度・中等度・重度・最重度に分けられる。

 

以前は精神薄弱といわれたもので、この言葉が差別感を生む語感があるところから、1970年代になって精神遅滞という名称が用いられた。

平成11年(1999)から、法令上は「知的障害」という用語に統一された。

 

 

幼い頃に「自閉症」と診断を受けたあと

発達の様子で、診断名が変わる事がある。

 

知的な遅れのある(知的障がいを伴う自閉症)と、

知的に遅れはなく、コミュケーション障害は残る(高機能自閉症)

ADHDやLDとなるケースがある。

 

 
なっこ 

2才で「自閉症」と診断を受けた時点では、

意味のあることばはしゃべっていなかったが、

発音は明瞭だったし、英単語も数字も言えたし、たくさんのものの名前を知っていたので、

「「高機能自閉症」まで、成長するかもしれませんね。」

と言われていた。

 

子どもの成長がよく できることが増えれば、「優越感」を覚え、

そうでなければ、「劣等感」を抱く。

 

親というものは、そういった思いに 駆られることが まま あると思います。

 

ずんずん成長して欲しい 願望と、

元々私の中にあった 少なからずも 知的障がいを否定する気持ちが 同時に現れたような気がします。

 

親になったと同時に、

我が子と、他人の子どもと『比べる』という作業をしてしまいます。

 

優劣をはかる

優越感に浸ったり、

勝手に、悲しみ 傷つき、劣等感を抱く。。

 

まま あることかもしれません。

 

なっこについては、

何事も、同い年の子どもさんより 劣っている。

後から生まれた赤ちゃんがどんどん成長していく中、

なっこの成長は目に見えない。

 

仕方がないと、頭では 分かっていても、

集まりや行事ごとのたびに、

『比べる』 を繰り返していました。

 

年月がたって、「諦め」というと 語弊がありますが

否が応でも、事実を受け入れるしかない という一面もあるように思いますが、

 

人より能力が低いということは、どういうことなのか?

その答えを、

 私の腑に落ちるように、

 納得する考え方を探る作業を 

その年月で、続けてきました。

 

ごく最近になって、

出来不出来で、優劣は決まっても、

同じように、

人の価値まで、決まっていくものではない


そう感じることができるようになってきたと思います。

ひとりひとりの価値は、同じだな と思えるようになってきました。

 

 

「できる、出来ない」

凹凸があって

「出来ないところは、誰かにしてもらう」

それで、いいんじゃない?

 

お米がないと困るけれど、

お米を作ってくれる人がいて

お米を売ってくれる人がいて

買う私がいる。

 

何もかも作ってもらっている

 

水道の水だって

電気だって

衣服だって

道路だって、

船だって

 

身の回りのもの、全て誰かのお世話になって 助けられて生きている

 

してもらう人がいて

してあげる人がいる。

 

どちらが、凹でも凸でもいい。

そのの出来ない事を してあげて 役に立った

が役にたったのは、が存在したから・・。

 

人は、存在するだけで、

充分 価値あることなのだ。

 

 

なっこがなっこで

生まれた意味は、

そういった事を 考えさせるため なのかもしれない。

 

 

 

 

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2014年

5月

03日

よかったわ~(^-^)

 

「子どもは、やっぱり3人でよかったわ」と、夫が言ったことから、始まった。

 

 

「あっ、たしか お父さんは、2人でいい!って言ってたよね!」

(私は、昔から3人欲しかった・・)

 

「うん。おれは、2人でいいと思ってた」

 

「3人で よかったでしょ」

「うん」

 

「4人なら、4人で良かったって言ってただろうけどねっ」

「うん。

 こげやって、可愛い子3人と一緒におる時間が何よりもいい。」

 

そんな会話になった。

晩御飯を食べながら・・・。

 

「わたしも、かんすけが生まれてよかった。

なっこは、おるけど、、、特になっこは、会話ができんけん、

かんすけがおって しゃべれてよかった。

と、おねえちゃん。

 

テレビには、秘密結社鷹の爪 が流れてたと思う。

 

このフツーの夕食の時間にフツーに話したことが、

すごく嬉しくて、妙に感動して涙目になった。

「サントリー金麦〈糖質70%オフ〉」1本の影響も否めない訳だけれども・・(^_^;)

 

 

なっこの下にもうひとり 考えた頃・・
将来のおねえちゃんにとっても、なっこのことを、一人で背負わせるのは、

辛いと感じていた。

決して背負わせるつもりはないのだけれど、

“きょうだい”だから、きっと、思いやり、気にかける と想像した・・。

 

産まないと、後悔すると思った。

 

なっこのことを知っている周りからは、

「もうひとり産まないの~?」とは、言われなくなった ような気がしてた。

みなさんが、心配してくださっているのが 分かった。

3人目を産んで、賑やかな様子を見てもらいたかった。

    

   それから、

   ハンディあるきょうだいがいるからといって、

   その後も、ハンディある子が生まれる訳ではないという事を、

   証明したい気持ちがあった。

   

   一種賭け に近いけれど・・

   もし、ハンディある子が生まれてきても、

   なっこの時と同じように

   泣いて、周りに助けてもらおうと 決めていた。

  

   望んで妊娠したけれど、

   妊娠が病院でハッキリしたとき、

   『もうこれで、あとには帰れないな』と思った。

   嬉しい気持ちもあったはずだけれど、、、

   表情が硬かったらしく、

   助産師さんに「いいことなんだから!」と背中に手を当てられた。

   もう自分で決めたことだし・・となっこの話など しなかった。

 

   それから、9ヶ月後、産気づいて、

   病院につくと、その助産師さんが担当だった。

 

   助産師さんのほうから、なっこのことに触れ、

   「全然 知らなかった。」「つい先日、聞いた」と。

   ・・・助産師さんのあいだで、出産を迎える私への配慮の話があったよう・・・

   

   陣痛の合間、腰をさすってもらいながら、話しをした。

   3人目を望んだ 気持ちなんかも話した。

   

   妊娠中、、不安がなかったと言えば嘘かもしれないけれど、

   それは、だいたいの人の妊娠の時と同じ感覚だったと思う。

   「あとには、戻れない」

   「きっと いい子がくる!」って信じていた。

 

   私のいいところは、

   この「理由ない自信」 笑

 

   陣痛の日までに、随分と覚悟ができたし、

   陣痛がきたら、早くかわいい赤ちゃんを抱っこしたいと思った。

   

   「きっと いい子がくる!」と。   

  

 

 

「特になっこは、しゃべれんけん・・かんすけが生まれてよかった」

おねえちゃんの言ったことばを 

傍らにいた なっこは、どう聞いただろうか?

 

「しゃべれんけん」 って言われてるのは、嫌かもしれないなっ。

 

あとになって思った・・・。

(なっこが、充分にその会話の意味を理解するとは、考えにくいけれどもだ)

 

でも、なっこも、きっと、おねえちゃんと2人よりも、

かんすけが生まれて来てくれて、

「よかったわ~!」と、言ってくれるに違いないと思った。

 

 

だって!

なっこの気持ちは、きっと こんな感じ♪

 

『絵本で見た “おとうと赤ちゃん”が、

うちにも きた。

名前は、かんすけくん。

 

なんだか、よう わからんけれど  

可愛くてちっちゃい かんすけくんが、側にいて、時々くっついてくる。

私の膝にも、座ってくる・・

時々、大きな声で、怒ったりして怖いから、逃げるし泣いちゃうけれど・・・。

時々、にこにこして、美味しいものをくれたりするから、好き。

 

“おとうと赤ちゃん”が、どんどん大きくなってきて、

私のことを、「英語しか しゃべらんもん」と、言ったりしてる。

それに、私の宿題プリントを勝手使って、

ひらがなを書いたりする。

私より下手な字で。笑

 

でも、私も・・

 

かんすけくんの

仮面ライダーガイムのおもちゃ。

フルーツがついてて、前から気になってた。

かんすけくんが見てない時、

こっそり借りて遊んでる。

 

 

テレビをみて、かんすけくんは

ヘラヘラ踊ったりする

面白い

私も 踊り好き。 

 

かんすけくんは、私の弟。

だから、好き。』

 

 

もし かんすけが、いなかったら・・・。

想像もできないが、

ひとりの人が、存在するのと、しないのとでは、

全然違う。

 

やっぱり、きょうだいは、いい。

うちは、3人でよかった。

本当に、かんすけを産む決心をして

 

よかったわ。

 

 

 

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2014年

2月

01日

harubana 更新しました~


もう一つのブログ「harubana」更新しました~。

http://harubana.jimdo.com

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2013年

12月

15日

harubana 始めます♪

新しく ブログのページを作りました。

ここは、本当に伝えたいこと。

 harubanaとして、時々更新していくつもりです(*^_^*)

 

http://harubana.jimdo.com/ 

よろしければ、こちらも、よろしくお願い致します♪

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2013年

12月

13日

なっこの将来♪

毎晩、ジイジがかざったイルミネーションが輝きます (*^^*)
毎晩、ジイジがかざったイルミネーションが輝きます (*^^*)

 

先日の「島根県心身障がい者親の会連合会大会・研修会」・・ に

参加した夫からこんなことを聞きました。

 

親の会の会長さんが挨拶の中で

 

「障がいのある人が 幸せに暮らせる地域ならば、

              誰もが幸せに暮らせる場所である」

 

それを、目指していくことが大切だと、お話されていたそうです。

 

 

人は、長く生きていると、いつかは、ハンディキャップを抱えます。

赤ちゃんのように 周りの人の助けを100%受けて生きる状態になりうる。

だから、障がいは、だれもの問題だと思います。

 

年齢を重ねると、

本が読みづらくなり、メガネをかけたり、

耳が聞こえにくくなり テレビのボリュームをあげてしまう。

新しい機械の使い方は覚えられない。

何を取りにここへ来たのか? あれ!?と、わからなくなる。

人の名前が思い出せない。

足腰が弱り、重いものが持てない。

階段も登れない。

歩く時、押し車があると楽になる。

硬いものが噛めない。

今まで出来てたことが、だんだん出来なくなる。

 

近年、

国家試験を通過した介護ヘルパーさんだったり、

ケアマネージャーさんが、介護支援をしてくださることで、


本人はじめ家族も、心身ともに癒され過ごしやすくなり、

また楽しい気持ちで日々過ごす事が出来る人も増えたと思います。

 

それは、利用システムの幅も広がり、

より良いサービスを提供出来るようになり、

職員さんが利用者である高齢者に思いを寄せていった結果だと思います。

 



一方で、

障がいのある人は、おざなりにされてきたと思う。

当事者たちが、うまく訴えることができない場合もあったと思うが、

家族などの意見も、結局後回しにされてきたのだと感じざるを得ない。

 

実際、障がい者施設で働く職員さんは、国家試験などはない。

 

職員の方がダメだというつもりはなく、

日本の国は、まだまだ 障がい者に対しての支援は、これから・・・という感じであるということを、言いたい。

 

歳を重ねて、老いていくことや、

病気で、身体が不自由になることは、経験上、誰もが想像しやすいこともあるかもしれません。知的障がいや、自閉症、ダウン症、さらに少数派になればなるほど、簡単に想像しにくいところもあるかもしれません。。

 

私だって、なっこがうちに来なければ、考えていなかったかもしれないことなので、誰も責める気など、ありません。

 

なっこが、生まれてきたということは、

きっと 私たち夫婦は、ちゃんと考え、

なっこの代弁をしていく使命があるのだろう。その役割をいただいたのだろうと、思います。

大それたことが出来るとは思いませんが、自分の思いを、ちゃんと周りに伝える術を磨いてゆきたいと思います。

 

 

 

「うちの子には、障がいがあるから、一生施設で過ごすしかない。

そのほうが安心だし・・・」などと、自分で自分を納得させ、諦める親が減ることを願います。

実は、私も少し前までそう考えていました。

でも、できる限り、夢や希望を持って進みたい。

親の気持ち そのまま、正直に感じようと思い始めました。

 

 

見かけには、障がいのある人は、

色々な事がわからないだろうと思えてしまうかもしれないけれど、

 

なっこ一人をみていても、全然そうではなく、

色々なことを知っているし、

好きなこと、嫌いなことがあり、

したいこと、したくないことがあるわけです。

 

我が家を離れ、すすんで施設に住みたいと、思わないと思います。

起床時間も決められ、寝る時間も、合わせる。

フツーの人なら、一日で、嫌だー!!と、いいそうです。

「重い障がいがあるから」それが当たり前・・・で、しょうか?

 

人に決められたメニューで、毎食食べたくはないと思います。

着るものだって、遊ぶことだって、選びたい♪

布団だって、まくらだって、自分のお気に入りに包まれて、ゆっくり休みたい♪

 

そうやって、自由に選んでいく術を

なっこには身につけてやりたいと、思います。

支援してくださる人とコミュニケーション出来、

なっこらしく自由に、暮らして欲しいと思う。

 

 

結局、ハンディある子が、幸せに暮らせる土地は、

誰もが幸せになれると、私も思います。

 

 

 

 

 

頂き物のオルゴール「ドラえもんのうた」が流れます♪

 

招き猫に、打出の小槌♪

福を招いてくれそうです(*^^*)

 

 

 

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2013年

11月

26日

子ども達の為に・・

来年度平成26年4月から、仁万の里の運営主体が変わることになった。

 

建物の管理は、「広域連合」のまま

運営は、新たに、「社会福祉法人 博愛」に決まった。

その説明会があり 行って来た。

 

「博愛」の吉田理事長さんは、

これまで、みんなの作業所

     岬のデイサービスセンター、

     グループホーム、

     福祉ショップ「ゆめ」

 など、高齢福祉、障害者福祉の事業を展開してきて、

新たに、仁万の里の運営もしていくことになる。

 

吉田理事長さんのことばで、印象に残ったのは、

「質の向上、より良いサービスの為に、

 施設・設備の管理、財政、人材の管理があるんだ」

 

法律にあることを予算内で、やっていく行政。

そこでは、出来にくかった経営を、

民間「博愛」は、ニーズにあった運営をしていくという。

 

時間はかかると思うが、保護者として、期待を持っている。 

 

今日を迎えるまでに、

実は一度、ひまわりmama c.の一員として、吉田理事長さんと

お話しする機会を頂いた。

 

その中でも、今日のお話でも、

利用者のニーズを聞いていくことは、福祉サービスとして、「当たり前」

職員として、「当たり前」

利用者さんの自由選択意志決定・・・それは、「当然のこと」

 

「当たり前」という言葉を よく使われる。

 

 

会の最後 意見交換で、

「今まで、不満や、要望があっても ハンディある家族を預けて、

施設には、お世話になっているから 遠慮して 伝えずにいたが、

 今日は言えた」と話していた方がいた。

 

本当にその気持ちはよく分かる。

 

伝えずに、悶々としてしまうこともある。

それは、保育所、学校へもだけれど・・

 

間に立つ、子どもの事を思うならば、

コミュニケーションをはかり、

要望を伝えていきたいと思う。(簡単ではないときもあるけれど)

 

 

理事長さんの「当たり前」という言葉を聞くと、安心するが、

もっと細かな点も、

我々の「当たり前」と、

施設の職員の「当たり前」が

同じものだったり、より近いものを指すようになれば、嬉しいと思う。

 

 

早速、来春から、放課後等児童デイサービス事業の計画がある。

ひまわりmama c.として、意見、要望をまとめ、提出したいと考えている。

 

一度に、変わることは、ないけれど、

すこしずつ、すこしずつ 良い方向へむかっていけるような気がしている。

 

 

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2013年

6月

12日

気の毒な子なんかにしない!

地元の病院で、「自閉症だと思う」と、専門医に言われながらも、

 

なにか、なっこの成長に役に立つことの情報がないか、

なっこが障がいなのは、「私のせいではない」ということを、

誰か医師に言ってもらいたくて、

 

2歳のなっこをだっこして ベビーカーを携え、船に乗り、 

本土の何人かの専門医のところに連れて行きました。

しかし、言って欲しい言葉は言われずに

一人の医師に 逆に、こんなことを聞かされました。

 

「今は、まだ【障がいかどうか】分かりません。

このまま成長が見られなかった場合は、

お気の毒ですが、自閉症ということになります」

 

丁寧な話し方に聞こえるかもしれません。。

 

けれども、私の 言われたときのショック、いらだち・・・。

相当なものでした・・

 

 専門医でも、わたしの子は、気の毒だと思うような子どもなのか?

 これから、育てる親にとって、夢も希望もないような気持ちになりかねない。

 

 なにが、気の毒だ!

 気の毒な子どもに なんて育てるモノか!

 と、ものすごく腹が立ちました。

 

 

でも、その夜、私はショックで、落ち込んでいたと思います。

 

なっこは、昼間移動中ベビーカーで寝ていたので

夜ものすごいハイテンションで 奇声をあげながら

ホテルのベッドをピョンピョン跳ねて大騒ぎ。

 

私は、隣の部屋の人が、文句でも言ってきやしないか、、 ハラハラ、

加えて 腹立たしい医師のことばを 何回も思いだし

 

これからのことも、全部 心配で 不安で、

 

なっこを、おもいっきり 叩いてしまいました。

 

 

 

今でも、その情景を思い出し

後悔して

涙が出てくるのですが

 

だれでも、虐待といえるようなことは、ありうることだと 知りました。

 

あの時、私の未熟さがもちろん原因ですが、

完璧な人はいない訳で、

あの時、医師がもっと

明るい未来を示してくれたのならば・・・・

と、思ったりしました。

 

けれども、その経験もすべて今の活動につながっているわけで、

人に簡単に話せないような経験が

もしも、誰かの役に立てるならば・・

と、思い、今日は書いてみました。

 

 

私は、お陰様で、

隠岐の中でとってもいい出会いに恵まれ、

いいサポートを受けることが出来、現在に至ります。

 

 

自分でいうのもなんですが、

お母さんをサポートしていくことの大切さを感じてきました。

 

よく「家庭でお母さんは太陽でいてください」とか聞きますが、

確かに肝っ玉かあちゃん、

元気で明るい女性は多いですが、

いやいや、なかなか堂々巡りで、大変な時もあるんです。

 

お母さんを孤独にしては、いけないですね、その悲しみは、子どもへ向かう時があると思います。

お母さんが元気でいられるように ぜひ 周りの方は 気にかけてあげてほしいです。

すると、悲しむ子どもは減るのではないかと、感じています。

 

お互い、少し、声を掛け合っていくことだけでも、その日一日が、明るくなります。

励まし合っていきたいですねっ。

 

 

長くなりましたので、今日はこのへんで・・。 

 

 

 

 

 

 

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2013年

1月

30日

私の半生・・・語っちゃいました・・(*´▽`*)

知っている人は、知っているが、私は転校生だった。

2回の転校。小学校を3校、通った。それも、区切りのいい4月からではなく、9月からと3月からの転入・・・。

  大人になった今も、ちょっと人が躊躇するような場でも、堂々気にせず入って行けるの

  は、このお陰かもしれない!! 笑 

 

1学年下の弟は、引越しは「いやだ、いやだ」と抵抗したし、

お友だちからも、「○○くん(弟)が、行くなら、ぼくも行く!」と、

言われるほどで、その土地に慣れ親しんで離れることを惜しんだ。

 

私はー、

特に離れがたい友だちがいるわけでもなく・・・

止めるお友だちがいる訳もなく・・

まじめに親の言う通りに過ごしていたため、

自分の気持ちよりも周りの気持ちに添うことが「いいことなんだ」という感じだったと思う。とにかく親を頼って過ごしていて 主体性とか、自主性というものが身についていなかった・・・。

 

中学に入学した私は、ずっと習いたい 習いたいと言いながら 叶わなかった「書道部」に入った。運動音痴な為、これ幸いの文化部! 先輩も3年生が4人で、2年生はいなかったと思う。だから、上下関係の大変さも知らぬまま過ぎていった。

 

中学生は多感な時期だけあって、同級生の中には、いわゆる不良・・的な行動に走る者、それから、いじめ・・不登校・・・ちらほらあった。

 

勉強も運動も、なにも得意なことはなく・・・テレビのアイドルやチェッカーズに夢中だった私 (〃ω〃)

 

本当の意味で楽しい友達関係も築けないままに、コンプレックスばかりの状態で、

とりあえず中学校へ通っていた。

 

・・・・きっかけは、

いつも待ち合わせをして学校まで友だち3人で歩く雰囲気が嫌で、黙って私ひとり先に登校したことから、、、。

 

朝教室に入ると、私の机に花の飾った花瓶を置かれたー。

クラスの大半に無視されたり・・にらまれたり?・・・

数ヶ月?続いた・・と、思う。。

あまりはっきり覚えていないのだ・・(^^;

細かく、この人が、こういってあーいって、こうして、あーして、、???

うろ覚え・・しかし、その時は一大事!

それなりに悩んだ・・

みじめな気持ち、悲しい気持ち、悔しい気持ち、人並みに味わった。

でも、

「その人を恨んでは、いけない」

「されて嫌だったことはしてはいけない」という親からの言葉を守ろうという真面目な気持ちもあった。暗い気持ちで過ごしていたと思う。

 

自分に自信がない・・・

私が悪いんだーと必要以上に思ってしまう自己嫌悪・・・の繰り返し

 

  自信のなさから、自己嫌悪に陥ることは、大人になっても、

  ずっと、ずっと続いていた。

  39歳で、「ひまわりmama c.」でお茶会をするようになり、

  いろんな話をしていく中で、

  愚痴を聞いてくれて励ましてくれる人がいて、ぐっと小さくなった。

  40歳で、FBやHPを開いてから、ネット上ではあるが、声をかけてもらうようになり、

  ますます小さくなった。

 

のけものにされた私を心配して、親が、同級生の親に話をしてくれた。

それを聞いて 私を助けてくれた女子もいた。

 

このことがあったおかげで、その後、私の心の中に、

 

「誰とでも 仲良くしたい」 気持ちが芽生えた事は確かだ。

 

  今は、「人を嫌わない!」がモットー!!

  そりゃ、苦手な人もいるし、できればお話したくない人も・・・(^^;

  でも、嫌いにならないようにする。意識をそちらに向けないようにさらりと付き合う。

 

 

中学2年には、クラス替えで雰囲気もよくなり、それからは、陰湿な事はなかったと思う。

 

しかし、将来の夢も何もなく、

夢中になったことは、チェッカーズの英語の歌詞を調べて研究していた・・笑 これで多少、英語の成績は上がったか!?・・*≧∀≦*

 

塾にも通っていた。。けれど、申し訳ないくらい出来は今ひとつ・・

それでも、受験生らしく夜7時になると2階へ上がり夜遅くまで机に向かった。要領が悪いのだと思うだが、どうにか希望高校へ行けることになった。(*^_^*)

 

その後は、部活にも入らず、

時代はワープロが流行りだし・・家でも、触れるようになったので、

習字を3年間習ったにも関わらず、汚い字のノートが、自分で嫌になって、ワープロで打ち直して印刷したり・・・カセットテープのケースに入れる紙にワープロで曲名を印刷した・・・今のパソコンに向かう日々に繋がっている 笑 

 

高校時代は、コンプレックスは消えないままでも、お友だちは、それなりに出来て

我を通しつつ、仲良く過ごしたと思う。

 

周りには 短大や専門学校へ進むお友だちが多かったけれど、

夢もない私を学校に行かせるほど 余裕は家にはないと、感じていたので、

就職を考えた・・・・

 

高2の時 成績順位から先生は大型のスーパーの店員さんとか「販売員」を勧めた・・。私の中では、人前に出て会話をするなんて全然苦手!気も回らないし、絶対、嫌だ!!!事務所でコンピュータに向かって仕事する方がまだマシ!  と思った。

 

これは、困った(>_<)

 

どうしても事務職がよくて、猛勉強!笑

高校に入れたら、ほとんど勉強せず、理科で「3点」という前代未聞の点数まであったが、次のテストで70点まで上げていき赤点回避、、それから1年後、どうにかこうにか「事務員」の推薦をもらえることになった。

 

1990年、大阪の運送会社の事務員として就職。

隠岐の人が何人かいて、トラックのおじさんに娘のように、とても可愛がられ、人生初モテ期を迎えた 笑

ちょっと勘違いをした私は、ハメをはずし?(そうでもないかもしれないが、)給料が出たら、同僚らと楽しく遊んだ!! 遊園地に行ったり、車で他県までスノーボードも行ったり、大阪城の夜の遊覧船?に乗ったり、梅田丸ビルにクロフクを見に行った・・・(〃ω〃) カラオケ、買い物、外食三昧・・・。

 

大阪の人は、私にお世辞だと分かる事でも、嬉しいことを沢山言ってくれたり、隠岐の言葉で話をしていると、可笑しいと言わず面白いと、笑って和ませてくれた。

中学高校では感じられなかった価値観の違う人たちがいると言うことを知り、そのままの自分を認めてもらえる嬉しさを味わった。

 

その頃、実家には、兄弟も本土に出て父母の二人になっていた。

電話で話をすると、気になることが沢山出てきて、父母の心配をするようになった。

ある晩、父の寂しそうな声に、私は急に大阪を引き上げ隠岐に帰ることを考え始めた。

 

・・・今、23歳・・・将来を考えても

 

いつか結婚して子どもが欲しい・・・けれど、この都会では、私が考える家庭は築けない・・一生ここには住めない・・・やっぱり隠岐に帰ろう・・

そういう気持ちもあった。

 

しかし、それまでの人間関係、、色々ゴタゴタしたこともあったため、

[飛ぶ鳥跡を濁ざす]

きちんと一緒に働いている人たちとの関係を良くしてから帰ろうと決め、

1つ上の苦手だった女の先輩とも和解をし、

半年かけて運転免許(オートマ限定)を取得。

1年後、夏のボーナスをもらい 笑 退職させてもらった。

 

6年4ヶ月の大阪生活を終え、隠岐に帰った。

 

隠岐から出て色々な経験をしたことで違ったことは、

 知らない人にも自分から話しかけられるようになった。

 スーパーで買い物したら レジの人に「ありがとう」

 外食したら「ごちそうさまでした」とお店に人に言うようになった。

 

父母の心配は、大阪で考えていたような不安な種はなく、

今後の予定が全くない状態を過ごした。

 

やっと自分のやりたいこと。

これから自分の人生、少しは考え始めたのかもしれない。

 

そういえば、中2の頃、小さな夢があった。

風邪でしんどい時に優しくしてもらった経験から「病院の受付の人になりたい・・・」と思っていた。ずっと持ってた思いが叶い、病院の受付業務に携わる仕事に就いた。

 

そして4、5年経って、結婚。

ここからの後の事は、今までもブログに書いた。

 

私の10代、20代。それから30代も。

人に自慢できることなど何もない。

 

子育てにつまずいたからこそ、真剣に自分のコンプレックスや悩みと向き合え、

自主的に行動出来る様になった。

 

40代。

人に何を思われようとも、

自分のしたいことをやろうと決め、ブログを書き始めた。

 今 

 思ってもみなかった よろこび。

 私をまるごと肯定してもらえたような 嬉しさ。

 誰にも言わず そっと私の胸に秘めておきたい

 そんな気持ちになる 喜びを味わっている。

 

 

今まで自分なりにつらい経験、嫌な経験があったから、良かったんだ!と、思えるように、

これからも いろいろな事を楽しんでいこうと思う。

 

夢は大きく いつか 叶うと信じて。

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